忍者ブログ
[21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31]

DATE : 2024/04/27 (Sat)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



DATE : 2006/12/20 (Wed)

オフコース

235af98e.jpgオフコース

オフコースは小田和正を中心としたフォークグループ。12月6日には2枚組の豪華ベストアルバム「i(ai)」を発表!!

オフコースを検索!!

↓オフコースの動画はコチラ↓

夜はふたりで(1982年live)

http://blog.seesaa.jp/tb/21627275
http://offcoursemusic.blog54.fc2.com/tb.php/62-a3918a75
http://blogs.yahoo.co.jp/soundcrewstaff/trackback/142663/8936718
http://blog.seesaa.jp/tb/23398950
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/659277f69162c8ef014de93fbef49487/4f
27904 オフコース
819 オフコース ベスト
773 オフコース 歌詞
711 オフコース 言葉 できない
424 オフコース 試聴
398 オフコース さよなら
385 オフコース フィルム コンサート
265 小田 和正 オフコース
167 オフコース cd
146 言葉 できない オフコース
144 オフコース i
142 オフコース - アダルト
139 オフコース アルバム
137 オフコース コンサート
135 オフコース 再 結成
133 オフコース ベスト - アダルト
127 オフコース 視聴
115 さよなら オフコース
113 オフコース abc
103 秋 気配 オフコース
101 眠れぬ 夜 オフコース
95 オフコース ベスト アルバム
94 ハマナカ オフコース
93 オフコース 小田
88 オフコース dvd
85 オフコース シングルス
83 オフコース さよなら 歌詞
83 オフコース 小田 和正
83 オフコース 武道館
75 オフコース スーパー ベスト
72 めぐ る 季節 オフコース
69 オフコース 秋 気配
66 オフコース コピー バンド
62 オフコース 恵比寿
57 abc オフコース
57 オフコース 画像
55 オフコース 眠れぬ 夜
55 東芝 emi オフコース
54 オフコース 鈴木 康博
53 オフコース i love you
53 オフコース バラード
53 オフコース バンドスコア
52 オフコース midi
50 オフコース 言葉 出来ない
49 オフコース 君 ため 強くなる 緑 日々 歌詞
48 オフコース ダウンロード
48 オフコース メンバー
48 オフコース ライブ
48 オフコース 楽譜
47 オフコース カラオケ
45 オフコース き か せて
43 オフコース 動画
43 オフコース 解散
42 オフコース アンソロジー
42 オフコース カバー
41 オフコース ai
41 オフコース best
41 オフコース next
41 オフコース チューリップ
39 オフコース 2000
38 youtube オフコース
38 オフコース フィルム
38 風のように オフコース
37 オフコース ニュー ベストナウ 70
34 オフコース over
34 オフコース 意味
33 オフコース ディスコグラフィー
33 楽譜 オフコース
32 オフコース download
31 オフコース yes-yes-yes
31 オフコース 僕 贈物
31 オフコース 公式 ホームページ
31 オフコース 写真
31 歌詞 オフコース
30 オフコース yes-no
30 オフコース アイ
30 オフコース ワイン 臭い
29 i オフコース
29 over オフコース
29 オフコース ボックス
29 オフコース 愛 止めない
28 オフコース i(ai
28 オフコース 言葉 できない 視聴
27 i(ai オフコース
27 オフコース yes no
27 オフコース パンフ
27 オフコース 緑 日々
27 オフコース 鈴木
26 オフコース box
26 オフコース めぐ る 季節
26 オフコース フィルム ライブ
26 オフコース 小さな 部屋
26 鈴木 康博 オフコース
25 オフコース fm 音源
25 オフコース グレイテストヒッツ
25 オフコース シングル
25 オフコース 復活
25 オフコース 言葉 できない ダウンロード
24 オフコース cm
24 オフコース live
小田和正・鈴木康博・地主道夫らが、神奈川県横浜市の聖光学院高校時代にフォーク・グループを結成したのがオフコースの始まりである。1970年にデビュー。当初は生ギターを中心としたフォークソング的な曲を歌っていた。当時から実力は評価されながらも長年ヒット曲に恵まれなかった。結成9年目の1979年に松尾一彦、清水仁、大間ジローが加わり、バンドサウンドとなる。結成10年目の『さよなら』を初め、数多くのヒット曲で時代を代表するビッググループになったが、音楽番組全盛の時代にあって、珍しくほとんどテレビ番組に出ないで、レコード制作とコンサートに力を注ぐ姿勢を貫いた。 シンプルで普遍的な愛の歌詞とニューミュージックと言われた洋楽のエッセンスを持ったポップな楽曲と美しいハーモニーは多くの人を魅了した。オフコースの曲は近年でも、多くのアーティストによってカヴァーされ、歌われ続けている。 鈴木の脱退後、一時活動を休止した後、4人での活動時もヒット曲を連発し、変わらぬ人気を博する。4人で5年近くの活動の末、結成から19年目にあたる1989年年に解散。その後、小田と鈴木はソロとして、松尾、清水、大間はABCというグループで活動している。再結成を望む声は当初から多かったが、現在のところ、その可能性は薄いと見られている。

[編集]
メンバー
小田和正(おだ かずまさ、神奈川県出身)ボーカル、ギター→キーボード(結成〜解散)
鈴木康博(すずき やすひろ、静岡県出身)ボーカル、ベース→ギター(結成〜1982年6月30日脱退。東京工業大学工学部制御工学科卒業。小田の詞とは対照的な男っぽい詞を書く。編曲にも大きな力を発揮してきた職人的存在。
地主道夫(じぬし みちお)ギター(結成〜1971年2月頃脱退。ジ・オフ・コース時代に脱退後、大手ゼネコン、竹中工務店に入社、設計家として非常に有能で夕刊紙の日刊ゲンダイ(平成6年6月16日号)で「超売れっ子設計家」として取り上げられるほどだった)
須藤尊史(すどう たかふみ)ドラム(結成〜高校3年時の学園祭のみの在籍である為、アマチュア時代だけの在籍)
小林和行(こばやし かずゆき)ベース(1970年夏頃〜1972年5月19日脱退)
吉田浩二(よしだ こうじ)ドラム(1972年初頭〜同年5月19日脱退)
松尾一彦(まつお かずひこ、秋田県出身) ボーカル、ギター、ハーモニカ (1979年8月1日〜解散)幼い頃から音楽に目覚め、早5歳で作曲したという。オフコース時代から他のアーテイストに曲を提供している。
清水仁(しみず ひとし、大阪府出身)ボーカル、ベース(1979年8月1日〜解散)尊敬する人は“自分”というマイペースな人柄。ライブでもコーラスをこなす。
大間ジロー(おおま じろー〈本名:大間仁世 おおま ひとせ〉、秋田県出身)ドラム、パーカッション(1979年8月1日〜解散)高校時代に松尾と出会い音楽活動を共にする。
城間正博(しろま まさひろ)ドラム(1978年、大間ジローの急病によりツアーの間だけの一時加入。したがって大間の復帰から脱退)

但し、公式には小田、鈴木、地主、松尾、清水、大間を正式メンバーとし、須藤、小林、吉田、城間についてはあまり語られていない。



[編集]
略歴
高校時代、小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人によって「ジ・オフ・コース」が結成される。
高校卒業後、鈴木康博は東京工業大学制御工学科に進学したが、小田和正は東北大学建築科に行ってしまい、離ればなれになる。(千葉大学医学部に進学することも考えていたが、見学に行ったときに「カーテンが薄汚れていた」という理由でやめた)しかし、休日に鈴木が車に機材を積み込んで仙台まで行って練習は続けられた。結成時の名称は「ジ・オフ・コース」であった。
1969年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに(競争率が低いだろうという理由で)東北地区から出場し、第2位となる(このときの第1位が赤い鳥)。この時小田和正は最優秀歌唱賞を受賞。自分たちの演奏には絶対の自信があり、優勝して「ジ・オフ・コース」とアマチュア音楽活動を終え社会人になるつもりだったが、2位にとどまったことで小田・鈴木は気持ちに決着がつかなくなった。鈴木はミュージシャンになることを親に反対されていたが、これで音楽で生きて行こうと決心が固まり、安川電機の内定を取っていたが辞退した。
1970年4月5日、「THE OFF COURSE」の名前で『群衆の中で』(作詞:山上路夫・作曲:BETTY DEAN)でデビュー。キャッチフレーズは美しいハーモニーをアピールする“日本のカーペンターズ”であった。10月にはベーシストの小林和行が加入。
1971年2月、地主道夫が建築の道へ進むためにグループを脱退。その後、ドラマーの吉田浩二が加入。
1972年4月25日にリリースされたシングル『おさらば』よりグループ名を「オフ・コース」とする。同年5月19日、小林と吉田が脱退し、メンバーが小田・鈴木の二人となる。
1973年2月20日、初めてのオリジナル曲のシングル『僕の贈りもの』(作詞・作曲:小田和正)をリリース。同年、最初のオリジナルアルバム『僕の贈りもの』を発表。
1976年、シングル『ひとりで生きてゆければ』のレコーディング(5月5日頃)からプロデューサーである武藤敏史が以前ディレクターを担当していた「ジャネット」の元メンバー大間ジローをレコーディングに参加させる。
同年リリースされたアルバム『SONG IS LOVE』のレコーディング(10月30日頃)から松尾一彦と清水仁が参加。清水の参加に「技術力が無い」として鈴木は反対したが、人間的に魅力があり「長い間、楽しくバンドをやっていけそう」として小田がゴーサインを出した。しかし鈴木の心配通り、清水のベーシストとしての演奏技術は低かったが他のメンバーは清水が出来る様になるまで根気良く待ち続けた。そして、このアルバムから実質的に5人のバンドとなった。8月1日、それまで所属していたサブ・ミュージックから独立し、「(有)オフコース・カンパニー」を設立。小田は早稲田大学大学院を卒業。
1977年8月5日にリリースされたシングル『秋の気配』より「オフコース」名義(オフとコースの間のコンマがなくなる)になる。
1978年3月から始まった春のツアー中に大間ジローが急病で入院。一時、代役として城間正博が加入。
1979年8月1日、それまでオフコースのバックバンドを務めていた松尾一彦、清水仁、大間ジローが、正式なメンバーとしてオフコース加入。この時期(10月20日)に発表されたアルバムは『Three and Two』というタイトルで、ジャケットの表紙には新加入の3人の写真が大きく使われた。
同年12月1日リリースの『さよなら』が大ヒット。オリコンシングルチャート第2位を記録。一躍人気「ニューミュージック・バンド」と呼ばれるようになる。
1980年11月21日、アルバム『We are』をリリース。出世作となり、初のオリコンチャート1位にも輝く代表作となる。しかし同年秋のツアー・リハーサル初日に鈴木がメンバー、そしてスタッフへ脱退を表明。小田の懸命の説得も実らず鈴木は脱退の意志を固めた。
1981年12月31日、『We are』が第23回(1981年)輝く!日本レコード大賞の「ベスト・アルバム賞」を受賞した(この時は松任谷由実の『水の中のASIAへ』、大滝詠一の『A LONG VACATION』も同賞を受賞している)。
1982年1月22日より全国28ヶ所69回公演の大ツアーを行う。観客動員数はのべ10万人を越えた。
1982年6月15日〜6月30日には前人未踏の日本武道館10日間公演を行う。このコンサートへの申し込みは約53万通にも及んだ。この公演を最後に鈴木康博が脱退。一時活動を休止する(武道館コンサート最終日に小田は、これが鈴木との最後の演奏になるのかという思いからか『言葉にできない』で涙を流し、歌に詰まっている)。同年秋、TBS系でメンバー全員が出演する、ドラマ仕立ての特別番組『NEXT』が放映される(この番組は武道館コンサート後に解散し、それぞれの道を歩んでいたという設定のメンバーが5年後の1987年6月30日に5年前と全てが同じ設定でコンサートを行うまでの過程や武道館コンサートでのライヴ映像を使うなどしてオフコース版「マジカル・ミステリー・ツアー」風に仕上げていた)。
1982年9月から翌1983年1月にかけて全国240ヶ所で武道館コンサートの模様を収めたフィルムコンサート上映される。
1984年小田・松尾・清水・大間の4人により活動再開。4月21日「君が、嘘を、ついた」をリリース。これも同じくオリコンシングルチャートで第2位。この当時のフジテレビの人気番組『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」に出演し、『君が、嘘を、ついた』のプロモーションビデオ・プレミアム鑑賞会を行った。ちなみに、この時の順位は第1位。
1985年8月1日、自身の曲を全て英訳したセルフカバー・アルバム『Back Streets of Tokyo』がリリースされる。これはバンドの全米進出を狙ってリリースされた作品である。しかし全米進出は叶わなかった。
1988年11月、ファンクラブの会員に向けて解散を正式に発表。
1989年2月26日、東京ドームでの公演『The Night with us』を最後に解散これはファンや長く務めて来たオフコースのスタッフ達の強い働きかけにより実現した。なお小田は、ここでも『言葉にできない』を歌う際、涙を流して歌に詰まった。(このコンサートの映像化を希望する声は多いが未だに実現していない)。
1999年元メンバーの清水仁、松尾一彦、大間ジローがA.B.Cというバンドを結成した。

[編集]
音作り

最初にコード進行を作り、そこにみんなでアレンジを加えて行き、最後に詞を作るという。 オフコースは5人で演奏可能なアレンジでレコーディングする方針を取っていた。小田によると、オーバープロデュースは嫌うので、音的には足りない部分もあるが、聞く人が足して聴いてくれればいいという。

[編集]
エピソード
「オフコース」の名前の由来は「もちろん(of course)」ではなく、「道を外れる(off course)」という意味であるが、命名のヒントになったのは聖光野球部OB草野球チーム「of course」(勝って当然(of course)、もちろん(of course)勝つ)である。
「オフ・コース」時代の1974年10月26日、中野サンプラザでのコンサートで、新曲『忘れ雪』(作詞・松本隆、作曲・筒美京平)を演奏予定だったが、レコード会社の幹部が来ていたにもかかわらず「自分たちが作った曲ではない」という理由で演奏しなかった。その後、この出来事はファンのあいだで「『忘れ雪』事件」と呼ばれるようになり、この曲はその後も生演奏されることはなかった。ライブ・アルバム『秋ゆく街で』は、この時のステージが収録されたものである。
アルバム「ワインの匂い」の制作にかけた500時間はサディスティック・ミカ・バンドが持っていた当時のレコーディング時間の記録を更新した。小田と鈴木は新たにプロデューサーの武藤敏史に「お金も何も要らないからスタジオ時間だけ欲しい」と言ったという。
同アルバム中の『愛の唄』をカーペンターズは非常に気に入り、レコーディングを検討した。
『老人のつぶやき』は元々、NHK「みんなのうた」のために作ったがボツになった。
『さよなら』『Yes-No』『YES-YES-YES』『君が、嘘を、ついた』などがヒットし、当時のTBSの人気番組ザ・ベストテンに何度となくランクインしたが、この番組を含めテレビの音楽番組には一切出演しなかった。「オフコースの皆さんはコンサート活動に専念するため…」とお詫びのお辞儀をする久米宏の姿が毎週のように見られたが、一度だけ『YES-YES-YES』の時に、レコーディングスタジオから中継で小田のみがコメントを出した事がある。
1982年の武道館10日間コンサートのチケット抽選応募葉書は50万通を超えた。
オリコンシングルチャートにおいては『さよなら』、『君が、嘘を、ついた』が最高で、2位止まりだった。アルバムチャートでは『We are』と『over』が1位に輝いている。なお、小田和正が作った曲がシングルチャートで第1位を獲得するのは、彼がソロシンガーとしてデビュー後の1991年、『ラブ・ストーリーは突然に』で達成される。
シングル『YES-YES-YES』に妙な女性の声(ねぇ、私のこと好き?)が入っていると、テレビのオカルト番組で取り上げられることがあるが、この声は意図的に録音されていることが、当時の音楽雑誌「ギターブックGB」の記事に掲載されている。声の主はレコーディングのとき、同じ録音スタジオを使っていたレモンツリーという男女デュオの女性である。
後にゴダイゴが担当したことで有名な「銀河鉄道999」の映画主題歌は最初はオフコースにオファーが来ていたが、小田和正の自著によると「レコード会社」や「映画会社」の関係で実現しなかったという。
鈴木が脱退した経緯は山際淳司著によるドキュメンタリー『Give Up』に詳述されている。これによると、当時のマネージャー上野博が「オフコースが売れるにはまず一人、象徴となる人物を立てて、その人物をメインに押し立てていくべき」という方針を立て、小田が選ばれた。実際、そのころからメディア露出は小田がメインになっているのだが、このことに鈴木が反発したことによるという。
1982年、伝説となった武道館10日間公演の後、追加公演として横浜スタジアムでのコンサートも予定されていたが、鈴木の脱退に伴い、取りやめとなった。
1981年6月21日に発売されたシングル『I LOVE YOU』(ETP-17169)ではエンディングのコーラスは当初、少年合唱団によるテイクを予定していたが、結果的にはレコーディングスタジオ近くの公園にいた子供たちやその親を迎え、さらにそこにメンバーやスタッフも加わってレコーディングしたテイクに変更された。また、この曲は1982年7月1日発売の『I LOVE YOU』(ETP-90180)にアルバムバージョンとして収録され、間奏部にジョン・レノン死亡のニュースを伝えるナレーションが挿入された。このアルバムのミキサーであるビル・シュネーの友人が新聞記事を読み上げたものである。
2006年、河村隆一によって「YES-YES-YES」がカヴァーされた。河村は2006年5月13日発売の『CDでーた』で、「純粋に小田和正さんの声が素晴らしいと感じた」と話している。また、同年5月18日配布のフリーペーパー『R25』で、「音楽に携わるものとしての自我に目覚めた」と語っている。
「僕等の時代」は一時期、名古屋テレビのオープニング・クロージングのBGMだった。
「僕等の時代」の詞が現在、国語の教科書に採用されている。

[編集]
主な作品
以降、順位、売上げは全てオリコンを参考にしています。

[編集]
シングル
群衆の中で/陽はまた昇る(1970年4月5日)
夜明けを告げに/美しい世界(1970年10月5日)
おさらば/悲しきあこがれ(1972年4月25日)
僕の贈りもの/めぐり逢う今(1973年2月20日)
もう歌は作れない/はたちの頃(1974年4月5日)
忘れ雪/水いらずの午後(1974年10月20日)
眠れぬ夜/昨日への手紙(1975年12月20日) 最高位48位 売上げ4.6万枚
ひとりで生きてゆければ/あいつの残したものは(1976年5月5日)
めぐる季節/ランナウェイ(1976年10月5日)
こころは気紛れ/あなたがいれば(1977年2月5日)
秋の気配/恋人よそのままで(1977年8月5日)
ロンド/思い出を盗んで(1977年11月20日) 最高位89位 売上げ1.5万枚
やさしさにさようなら/通りすぎた夜(1978年4月5日)
あなたのすべて/海を見つめて(1978年7月20日) 最高位82位 売上げ0.7万枚
愛を止めないで/美しい思い出に(1979年1月20日) 最高位31位 売上げ9.8万枚
風に吹かれて/恋を抱きしめよう(1979年6月5日) 最高位41位 売上げ3.7万枚
さよなら/汐風のなかで(1979年12月1日) 最高位2位 売上げ71.7万枚
生まれ来る子供たちのために/この海に誓って(1980年3月5日) 最高位48位 売上げ3.7万枚
Yes-No/愛の終わる時(1980年6月21日) 最高位8位 売上げ35.4万枚
時に愛は/僕等の時代(1980年12月1日) 最高位35位 売上げ7.0万枚
I LOVE YOU/夜はふたりで(1981年6月21日) 最高位6位 売上げ18.3万枚
愛の中へ/Christmas Day(1981年12月1日) 最高位23位 売上げ7.0万枚
言葉にできない/君におくる歌(1982年2月1日) 最高位37位 売上げ3.6万枚
YES-YES-YES/メインストリートをつっ走れ(1982年6月10日) 最高位6位 売上げ19.4万枚
君が、嘘を、ついた/愛よりも(1984年4月21日) 最高位2位 売上げ31.6万枚
夏の日/君の倖せを祈れない(1984年7月18日) 最高位15位 売上げ6.9万枚
緑の日々/CITY NIGHTS(1984年9月21日) 最高位14位 売上げ8.3万枚
call/2度目の夏(1985年2月21日) 最高位7位 売上げ12.7万枚
たそがれ/LAST NIGHT(1985年5月22日) 最高位7位 売上げ12.0万枚
夏から夏まで/ぜんまいじかけの嘘(1985年9月21日) 最高位9位 売上げ6.5万枚
ENDLESS NIGHTS/EYES IN THE BACK OF MY HEART(1985年11月30日) 最高位26位 売上げ5.3万枚
IT'S ALL RIGHT(ANYTHING FOR YOU)/IT'S QUITE ALL RIGHT(INSTRUMENTAL)(1987年3月4日) 最高位20位 売上げ2.7万枚
もっと近くに(as close as possible)/Tiny Pretty Girl(1987年5月25日) 最高位29位 売上げ1.7万枚
君住む街へ/*君住む街へ-INSTRUMENTAL VERSION-(1988年1月25日 CD-S:1988年2月25日 *CD-Sでは「君住む街へ-Another Version-」) 最高位11位 売上げ3.8万枚
she's so wonderful/陽射しの中で(1988年7月25日) 最高位80位 売上げ0.3万枚
夏の別れ/逢いたい(1988年10月25日) 最高位82位 売上げ0.4万枚

[編集]
オリジナルアルバム
僕の贈りもの(1973年6月5日)
この道をゆけば(1974年5月5日)
ワインの匂い(1975年12月20日)
SONG IS LOVE(1976年11月5日)
JUNKTION(1977年9月5日) 売上げ3.8万枚
FAIRWAY(1978年10月5日) 売上げ9.1万枚
Three and Two(1979年10月20日)
We are(1980年11月21日) 最高位1位 売上げ46.2万枚
over(1981年12月1日) 最高位1位(このアルバムのレコーディングの模様は、1982年1月3日日NHK教育テレビのドキュメンタリー番組『若い広場』で「オフコースの世界」として放送)
I LOVE YOU(1982年7月1日) 最高位1位
NEXT SOUND TRACK(1982年9月21日) 最高位1位
The Best Year of My Life(1984年6月21日)
Back Streets of Tokyo(1985年8月1日)
as close as possible(1987年3月28日) 最高位2位
Still a long way to go(1988年6月9日)

[編集]
ライブアルバム
秋ゆく街で(1974年12月20日)
LIVE(1980年5月5日)

[編集]
ベストアルバム
SELECTION 1973-78(1978年5月5日) 売上げ11.8万枚
SELECTION 1978-81(1981年9月1日) 最高位1位 売上げ47.1万枚(既発売のシングル曲はBill Schnee (ビル・シュネー)による新たなミックスダウン)
YES-YES-YES(1983年11月3日) 売上げ21.6万枚
IT'S ALL RIGHT OFF COURSE SELECTION ? 1984-1987(1987年7月5日)
君住む街へ 1984→1988(1989年2月1日)
OFF COURSE Singles(1998年3月28日 初回発売:1989年12月20日)
i(ai)(2006年12月6日)(ファン投票で32曲を選曲)

[編集]
映像作品
Off Course 1982・6・30 -Concert in Budokan-
NEXT VIDEO PROGRAM
Movie The Best Year of My Life
RUNNING THROUGH ’84
OFF COURSE TOUR 1987 as close as possible
Off Course 1981.Aug.16~Oct.30 若い広場 オフコースの世界
Off Course 1969-1989 Digital dictionary
PR

忍者ブログ [PR]
カテゴリー
最新記事
プロフィール
HN:
jpop
性別:
非公開
バーコード
アクセス解析
アクセス解析

千代田区 歯科
お茶の水 歯科
御茶ノ水 歯科
神保町  歯科
千代田区 歯医者
お茶の水 歯医者
御茶ノ水 歯医者
神保町  歯医者
八王子 歯科
八王子市 歯科
八王子 歯医者
八王子市 歯医者
八王子 インプラント
八王子市 インプラント
八王子 ホワイトニング
八王子市 ホワイトニング
八王子 審美歯科
八王子市 審美歯科